100 国の登録文化財の中山家住宅

更新日:2018年12月13日
中山家の寮

中山家の寮(別所6丁目)
木造1階建瓦葺き。
21平方メートル。床の間を持つ。
寮の南側は供部屋。
中山家住宅は非公開のため、見学はできません。

広瀬旭荘をもてなした別所村の庄屋・大庄屋

 別所6丁目の熱田神社(「歴史ウォーク」38)の東側に中山経正さん宅があります。中山家は、江戸時代に丹北郡別所村の庄屋や八上郡の大庄屋をつとめていました。
 別所村は、はじめ幕府領でしたが、宝永2年(1705)から関東の大名であった秋元家の領地となりました。秋元氏は河内国の丹北・丹南・八上の三郡43カ村を支配しており、八上郡長曽根村(堺市)に陣屋を置きました。
 三郡にはそれぞれ大庄屋が任命されましたが、おもに三宅村から堺市域の八上郡を中山氏が、堺市や羽曳野市の丹南郡を日置氏(丹南郡西村、堺市)が、恵我地区などの松原市域や八尾市・大阪市・羽曳野市の丹北郡を吉村氏(丹北郡島泉村、羽曳野市)が見ました。
 さて、中山家には寛政11年(1799)正月の日付をもつ「子孫永慶弔誌薄」が伝えられています。それによると、現在の中山家の主屋は文化2年(1805)に建てられ、奥座敷は天保元年(1830)に増築されたとあります。主屋は桁行十九間半、梁行五間の六間取りです。他にも、湯殿・寝部屋・寮・蔵・長屋門・裏門・長屋・塀など、近世後半の富裕な家柄にふさわしい建物がほぼそのままで残っています。このため、平成16年1月、中山家住宅は市内で初めて国の登録有形文化財に指定されました。
 このうち、興味深いのは寮とよばれる建造物の存在です。ここは、客人の宿泊所ともいうべき性格をもっています。中山家当主が文人や学者などを招いたのです。なかでも、幕末ごろ中山善右衛門経孝が大阪の著名な漢詩人であった広瀬旭荘と親交を持っていたことは特筆されます。
 旭荘は、豊後日田(大分県)の私塾として有名な咸宜園の創設者、広瀬淡窓の弟です。兄を継いで、塾長となった後、大阪にやってきました。旭荘は勤王の志士とも交わりましたが、経孝は旭荘や志士たちを寮でもてなしたと伝えられています。 旭荘が中山氏に贈った「静嘉」の筆や「積善之家」で始まる中国の『易経』を出典とする漢詩文(善行を積み重ねた家には、その報いとして必ず子孫にまでおよぶ幸福があること)が、今も中山さん宅の座敷に掲かっています。
 明治時代に入って、経孝の曽孫の中山潔は、儒学の学問所として有名な大阪の泊園書院に入塾しました。書院は、旭荘と交遊のあった藤沢東 が設立したものです。潔は、東 の子で当時一流の儒学者とうたわれた藤沢南岳に師事しました。南岳は、潔との師弟関係から別所村の氏神である熱田神社の石標(大正8年)や丹南村庄屋の松川長右衛門の碑(大正5年、「歴史ウォーク」89)を書いています。
 中山氏が村政だけでなく、地域の文化向上に貢献したことは豪農住宅の保存とともに、まことに有意義なことといえるでしょう。

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