126 廃寺となった西蓮寺

更新日:2018年12月13日
旧西蓮寺本尊の明善寺阿弥陀如来像の画像
「西蓮寺同行中」の棺台の画像
 

旧西蓮寺本尊の明善寺阿弥陀如来像(大阪市住吉区)
本尊は、戦後数年たって妙楽寺(藤井寺市)からリヤカーで安堂寺橋通の仮本堂に移されたという。
右は、東代墓地(河合2丁目)に残る「西蓮寺同行中」の棺台(下)。

東代の人々に信仰された浄土真宗本願寺派の寺院

 現在、布忍の東代(現東新町)に真宗大谷派の浄信寺(「歴史ウォーク」125)が建っていますが、大正時代後半まで、その西向いに浄土真宗本願寺派の西蓮寺も存在していました。今から90年ほど前に西蓮寺は廃寺となり、その跡は住宅地となっています。それでも、西蓮寺の門徒の家々では京都・西本願寺を本山として、堺市北区南花田町にある源光寺を通じて信仰を続けています。
 延宝6年(1678)の「河内国丹北郡東代村検地帳」(東新町・山田典生氏蔵)によると、江戸時代前半、浄信寺は惣道場としてありましたが、西蓮寺はまだ見られませんでした。
 その後、寛政4年(1792)ごろの西本願寺の「河内国末寺帳」(本願寺史料研究所蔵)には、「小山妙楽寺下 東代村惣道場西蓮寺」と記されています。江戸時代後半までには、西蓮寺は現藤井寺市小山4丁目にある妙楽寺を上寺としていたことがわかります。
 妙楽寺は、戦国時代の本願寺八世蓮如の河内布教以前、天台宗から浄土真宗に改宗したと伝えています。江戸時代前半ごろから、「河内十二門徒」の有力組織の一つとして、小山村だけでなく、現八尾・柏原・堺・松原などの村々にも多くの門徒をかかえていました。東代村もその一つだったのです。
 ところで、寛政9年(1797)につくられた「東代村宗門帳」(山田氏蔵)を見ますと、当時、東代村は34戸、人口141人と書かれています。庄屋の甚八は30才で、7人家族でした。村人の構成は、1人暮しから9人家族の大世帯までさまざまです。
 宗門帳によると、浄信寺には33才になる法例とよぶ僧侶が一人でお勤めをしていました。ところが、浄信寺の西側に並んで建っていた西蓮寺のことは、宗門帳には出てきません。常住する僧侶がいなかったからでしょう。それでも、宗門帳の書かれた3年前(寛政6年)の「稲毛 木綿 旱損作方内見帳」(山田氏蔵)には、西蓮寺が一反八畝の田を所有していることを記しています。
 西蓮寺の廃寺後、本尊の阿弥陀如来像は妙楽寺に移されました。しかし、戦後、縁あって本尊が焼失していた同じ本願寺派の明善寺(大阪市住吉区大領2丁目)の本尊となって、現在に至っています。明善寺は、もともと安堂寺橋通(現大阪市中央区南船場1丁目)にありましたが、昭和20年の大阪大空襲で焼け、のち住吉に移ったものです。安堂寺橋通の明善寺跡には、江戸時代以来、信仰の厚かった油掛地蔵が空襲の難を免がれ、今も祀られています。
 西蓮寺のことを知る人もだんだん少なくなっていますが、西除川沿いの東代墓地(河合2丁目)には、大正4年(1915)の年号を持つ「西蓮寺同行中」と記した棺台が延命地蔵尊の台石として残されています。

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