125 布忍郷東代村の浄信寺

更新日:2018年12月13日
布忍郷東代村の浄信寺の画像

浄信寺(東新町5丁目)本堂は平成元年(1989)に再建された。
その折、文政2年(1819)建立の旧本堂に使われていた柱や組物などの部材も再利用された。

親鸞・琢如絵像から知る真宗大谷派寺院の変遷

東新町5丁目に東新町公園と東代公民館が隣接してみられますが、同地は新池を埋め立ててつくられたものです。新池は、江戸時代前半・延宝6年(1678)の「河内国丹北郡東代村検地帳」(東新町・山田典生氏蔵)に「八反三畝拾歩 寛永八未年池ニ成」とあります。寛永8年(1631)、東代村の田畑を潤すために掘られたのです。すでに東代には、村北部に西池や寺池(「歴史ウォーク」122)などが存在していたことから、これらより後に出来たので、新池と名づけられたのでしょう。新池があったことを示す記念碑が東代公民館に建立されています。
 東代の集落は、旧新池から西側に広がっていますが、その一角に真宗大谷派の浄信寺が建っています。本堂には、本尊の阿弥陀如来像をはさんで二つの絵像が掛かっています。
 絵像裏書によると、一つは本山の東本願寺十五代常如が延宝2年(1674)に下附した十四代の「琢如上人真影」です。「河州丹北郡布忍郷東代村惣道場」とあります。
 もう一つは、6年後の延宝8年(1680)に十六代一如が下附した浄土真宗開祖の「親鸞聖人御影」です。「河内国丹北郡布忍郷東代村惣道場浄信寺」と記しています。
 琢如と親鸞の二つの絵像から読みとれることは、延宝2年当時はまだ寺の名が無く、惣道場と呼ぶだけでしたが、延宝8年になって浄信寺という名を東本願寺から認可されたことです。つまり、延宝2年以前、東代村には東本願寺の道場があり、この年、本山は前門首の真影を下しました。まもなく、同8年には寺号が許され、同時に開祖の御影が与えられたことから、現在みられるような寺院の形態が整ったのでしょう。
 先の延宝6年の「東代村検地帳」にも、「一 屋敷 弐拾四歩 道場」という記述があります。延宝8年まで、浄信寺の名前が無いことがわかります。ところが、それから100年以上たった寛政6年(1794)の「稲毛 木綿 旱損作方内見帳」(山田氏蔵)とよぶ作物の旱損状態を記した史料では、浄信寺は田畑を所有するまでになっています。
 17世紀前半以降、新池ができて作物の収穫が増えるとともに、人々の檀家寺への信仰も強まったことが想像できます。やがて、文政2年(1819)に本堂が建て替えられました。その時の立派な棟瓦が2枚、今も山門脇に保存されています。「文政二巳卯年四月上旬 北宮村瓦屋彦二郎」「文政二巳卯年四月下旬 北瓦彦」と刻しています。北宮村(現羽曳野市高鷲)の瓦屋が葺いたのです。
 なお、山門横に「臥龍地蔵尊」が祀られていますが、この名は地蔵堂を覆うように茂るいぶきに由来すると伝えられています。あたかも、龍が臥しているかのようだからです。市域に残る古木の一つとして、一見する価値があるでしょう。

「歴史ウォーク」122

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