46 濠に囲まれた三宅の陣跡

更新日:2018年12月13日
屯倉神社の南側に残る三宅の陣の濠跡の画像

屯倉神社の南側に残る三宅の陣の濠跡(三宅中4丁目、妻屋宏氏提供)
菖蒲の花が咲き、市民の目を楽しませている。

畠山氏や細川氏が陣を置いた室町時代の戦い

 室町時代後半、河内守護家の畠山義就と畠山政長兄弟の後継者争いから、河内では度重なる合戦が行われ、その抗争はそれぞれの子孫に引き継がれていきました。そのため、本市では若林と三宅がたびたび陣取場となりました。

『蔭涼軒日録』によると、明応2年(1493)3月2日、高屋城(羽曳野市古市)の畠山基家(義就の子)を政長軍が攻めた際、若林に数千、三宅に500の軍勢が布陣します。

 若林の陣については、前号で述べましたので、ここでは三宅の陣を取り上げます。
 三宅では明応2年のあと、明応6年(1497)11月に将軍方である河内の守護代の遊佐河内守が三宅で敗れ、多数の戦死者が出たと『師淳記』にあります。

 次いで、大阪・石山本願寺の証如上人による『天文日記』には、天文15年(1546)8月27日、高屋城にたてこもった細川次郎氏綱や三宅に陣取った弟の細川四郎は、室町幕府の実力者であった細川晴元と対立したと記しています。

 この三宅の陣に関して、それから2百数十年ほどたった江戸時代の宝暦10年(1760)の「三宅村明細帳」には、「三宅村に惣構えの堀跡があり、西矢倉・東矢倉と申している。往古より古城跡と伝えている。ただし、城主の名はわからない」とあります。
 その場所は、現在の三宅中4丁目の屯倉神社付近と考えられます(「歴史ウォーク」10・「歴史ウォーク」31)。室町時代の陣取場が、江戸時代になって古城跡と伝えられたのでしょう。

 江戸時代前半の延宝年間と思われる「三宅村絵図」には、屯倉神社は天神宮とあり、廻りを水濠が囲み、現在も南側と北側には幅2~3メートルほどの跡が残っています。この南側の濠の西側には、東西に細長く土井先という小字名があり、土塁の跡が地名として残ったのでしょうか。

 そのうえ、神社に接する南には、今は三宅土地改良区などに埋めたてられましたが馬場池があり、同じく潰廃した酒蓋池が西に見られ、また谷池が北にあって、いわば外堀の役割を果たしていたと思われます。  いまも、神社の北方を大門町とよんでいますが、そこには大手門のような陣の大門が設けられたのでしょうか。そうすると、陣の正門は北側にあったことになります。

 現在、神社南側の濠跡には、菖蒲園が整備されています。5月の後半ころ、白や紫にいろどられた花が咲き、市民の目を楽しませてくれます。

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