52 狭山池博物館の中の松原

更新日:2018年12月13日
西除川改修記念碑の画像

西除川改修記念碑
南新町2丁目の新布忍橋南詰。
昭和57年7月の洪水被害を教訓に西除川の改修が行われ、63年7月に完成した。
流域は遊歩道が整備されている。

丹比野の治水と潅漑のシンボル狭山池

今春、大阪狭山市に府立狭山池博物館がオープンしました。当館は狭山池の治水・灌漑とその土地開発の歴史を展示しています。特に圧巻は、50センチの厚さで切り取った堤の断面でしょう。

狭山池は飛鳥時代の616年ごろにつくられたわが国最古のダム式ため池です。以後、今日まで美原や松原など広大な丹比野の下流域に灌漑用水を送り出す源となっています。

ため池は水を貯めるために堤をつくりますが、池の水があふれると堤は崩れますので、余分な水を流す「洪水吐」がつくられました。江戸時代、狭山池ではこの洪水吐を「除」とよびました。本市を北流する東除川と西除川の「除」の名称は、狭山池の東と西側にある洪水吐から落ちる水をうけたことに由来します。

市域の用水路も狭山池の造営と関連して、7世紀ごろから機能したようです。上田5丁目の河内松原駅南側で検出された東除川と西除川間を結ぶ丹比大溝(「歴史ウォーク」12)や河合3丁目で見つかった西除川左岸の河合大溝がそのことを証明しています。

奈良時代になると、立部の府道中央環状線沿いの立部遺跡の発掘で南東の谷から伸びてくる用水路が出土しており、谷奥にはため池がありました。このことから8世紀には狭山池から流れ出た水は立部あたりまで送られていたことがわかります。現代に至る下流域への狭山池の灌漑水路網の原形は、すでに7~8世紀には誕生していたのです。

狭山池は奈良時代以後、平安・鎌倉時代にかけて堤や樋を修理する改修工事が行われました。堤のかさ上げで、池の貯水容量は増加し、下流に送られる灌漑施設も整備されました。

室町時代、享徳元年(1452)の広隆寺領松原荘の年貢目録に狭山池の改修が見られます。松原荘は現在の岡・新堂・上田にあたり、京都太秦の広隆寺の荘園でした(「歴史ウォーク」21)。

目録には、狭山池の灌漑範囲である松原荘が狭山池改修費24貫文を負担し、改修費を立て替えていた長曽根郷(堺市)にお金を渡したとあります。狭山池博物館には、この松原荘年貢目録(レプリカ)が展示されています。

ほかにも同館では、江戸時代に黒鍬とよばれる愛知県知多半島出身の土木技術者の集団が狭山池の改修にかかわるとともに、本市三宅の大海池や馬場池の改修も行ったことを紹介しています。また、布忍地域の水田面積の増加をビデオで放映していますので、市民の皆さんも、ぜひ館へ足を運んでみてはいかがですか。

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