80 高野街道に息づく大師堂

更新日:2018年12月13日
大師堂の画像
高野街道道標の画像

大師堂と高野街道道標(岡5丁目)平野から2里(8キロ)の場所。
道標はもとは竹内街道をはさんだ南西角にあった。
伊勢講の建立。狭山・三日市(河内長野市)を経て高野山に向かった。

弘法大師を慕い、信仰を続ける岡観音講の人びと

 京都の貴族や僧侶たちは、平安時代後半から、弘法大師空海が眠る高野山(和歌山県)に参拝するようになりました。久安4年(1148)6月、仁和寺の覚法法親王は高野街道を通って高野詣をする途中、松原庄で一泊しています。松原庄は、今の上田・新堂・岡あたりです(「歴史ウォーク」21・「歴史ウォーク」23)。

 同道は、大阪市平野区から市域の三宅・阿保・上田・新堂・岡・丹南を南北に結び、ふつう中高野街道と称しています。
 高野山へは、生駒山西麓の東高野街道や堺を通る西高野街道があるように、三本の道が利用されました。ただし、東・中・西という名称は明治時代以降のことです。江戸時代は高野街道、あるいは高野道とよんでいました。

 江戸時代中期ごろから、庶民の旅が盛んになりました。中高野街道は、平野区の杭全神社の泥堂口にあった一里塚を起点としています。三宅と阿保の境 にある教育委員会市史文化財係阿保事務所の南側に以前、一里塚がありました。平野から一里(約4キロ)の距離を測り、一里山という小字も残っています。
 ここから南に行くと、阿保と上田を分ける長尾街道に交差します。堺方面からの旅人でも賑わいましたので、茶屋が設けられ、阿保茶屋とよばれました。

 河内松原駅前西側をなおも南下すると、岡5丁目の竹内街道と交わる松原南図書館前に出ます。入口には、寛政9年(1797)6月、「いせこう中」 が建てた「左さやま 三日市 かうや道」「右ひらの 大坂道」「左さかい道」と彫られた道標があります。ここも、丹南茶屋とよばれ、いまもその面影を残す 二階建物が南西角に見られます。

 堺へ向かう竹内街道を200メートル行くと、空海を祀る大師堂(岡5丁目)が建っています。もともとは増池の東畔にありましたが、池の半分は埋められ、岡公園となっています。
 大師堂の創建は未詳ですが、高野山大円院より招請したという空海坐像・不動明王立像・板彫千手十一面観音立像が安置されています。密教様式の厳しい表情が特徴です。境内には、室町時代の阿弥陀如来坐像2体も祀られています。

 大円院と関わりがあるのは、大師堂に長く住持した神田覚栄師が大円院で修行をされたからです。覚栄師は、幕末の嘉永5年(1852)生まれ。昭和18年(1943)に亡くなるまで、地域の大師信仰を支えてきました。

 戦後以降、大師堂は岡の観音講によって守られています。いまも、毎月18日の「観音さん」、21日の「お大師さん」、28日の「お不動さん」の日 の詠歌をはじめ、毎年4月21日には大円院より僧侶がこられ、護摩が焚かれます。お大師さんは、人々の中に息づいているといえるでしょう。

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