86 剣先船の就航

更新日:2018年12月13日
大堀八幡神社の画像

大堀八幡神社(大堀4丁目)品陀別命を祀る。
小川5丁目の深居神社(「歴史ウォーク」37)から元弘・建武年間(1331?37)に分神したと伝える。
大和川の左岸に鎮座。

大和川を往来し年貢米・商品作物や肥料を運搬

 宝永元年(1704)、新しい大和川が今の流路に付替えられました。改流に伴い、剣先船とよばれる荷物を運ぶ舟も運行されるようになりました。
 すでに柏原から大坂市中に北流していた旧大和川には柏原船や国分船が就航していましたが、新流路の柏原~堺間にも河川輸送が導入されたのです。河内から大坂へ年貢米や商品作物を運ぶのが目的でした。反対に、大坂からは油粕や干鰯などの肥料が積みこまれました。

 翌宝永2年、14軒もの剣先船問屋が運行許可を求め、新たに舟会所もつくられました。下って、嘉永4年(1851)の「大和川中問屋軒数願付」にも14軒の問屋が記されています。そこには、現在の柏原・藤井寺・羽曳野・大阪・堺・富田林市域の村々の人とともに、松原市域の若林村の庄輔、大堀村の五郎兵衛、天岸の七郎兵衛の名が見られます。天岸とは、天美地域の氏神である阿麻美許曽神社の北岸、今の下高野橋あたりをさすのでしょう。

 剣先船の大きさは、長さ約17メートル、幅約1.9メートルで積荷の重さは約2400キログラムほどであったといわれています。

 しかし、新大和川は水深が浅かったことから、通航には苦労することもありました。とくに、大堀・若林より上流にあたる大和川・石川合流点の築留(柏原市)までの約5.2キロでは、川水が少なくなれば、船底が川床につかえて動けなくなりました。このため、水夫が川床を掘って船を動かしたのです。
 それでも河川による物資輸送の便利さから、松原地域の村々の年貢米も剣先船を利用して大坂に運ばれたようです。明和9年(1772)3月の更池村(現南新町)の「明細帳」には、天岸にあった舟付場から剣先船で大坂の京町堀川に入って川口難波橋(大阪市西区)まで下り、そこから積替問屋が上荷船や茶船に替えて、蔵屋敷の門前まで運んだとあります。18世紀中頃の三宅・別所・城連寺村の「明細帳」にも、大和川から年貢米を舟で大坂へ納めたことが記されています。

 ところで、狭山池から流れてきた東除川が新大和川付替え時に掘られた落堀川に合流する大堀4丁目に、大堀八幡神社が祀られています。鳥居入口に改流前の寛文9年(1669)と刻まれた手洗鉢が置かれていますが、改流後7年たった宝永7年(1710)11月にも、大堀氏が石灯籠を本殿前に奉納しています。村中安全のほか、剣先船の運行安全も祈念したのでしょうか。

 神社の対岸には、舟付場である川辺村(大阪市平野区)の川辺八幡神社の森も望まれます。両社は村の鎮守であるとともに、荷継をする人々のやすらぎの森にもなったでしょう。

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