87 三宅村の大火と地蔵

更新日:2018年12月13日
屯倉神社境内地蔵の画像

屯倉神社境内地蔵(三宅中4丁目)三宅村東馬場に造立されている。
三宅地蔵講がお祀りし、現在も8月24・25日、盛大に地蔵盆が行われている。

宝永三年銘の地蔵尊は智光坊焼の供養石仏か

三宅中4丁目の屯倉神社(「歴史ウォーク」10・「歴史ウォーク」31)の境内西南角に地蔵堂があり、立像の立派な地蔵が祀られています。舟型光背から蓮華座までの総高は約195センチ、像高は約122センチを測ります。花崗岩製で、右手に錫杖、左手に宝珠を持った典型的な作風で、慈悲に満ちた表情に心がやすらぎます。

光背中央上部に「カ」地蔵の種子を刻み、向かって右側には「若人欲了知三世一切佛」、左側に「應観法界性一切唯心造」「宝永三年卯月望日」と雄渾な文字で彫られています。また、台座となっている蓮華座正面には二行にわけて「造立施主」「三宅村中」とあり、同じく左側側面には作者名が磨耗していますが、二行で「石佛師」「大坂□□□□」と見られます。
すなわち、地蔵は江戸時代中頃の宝永3年(1706)4月、三宅村が大坂の石仏師に造らせたことがわかります。

ところで、三宅村ではこの宝永3年11月15日に大火があり、200軒余りの家が焼けたという記録が残されています。この時、村内の玉応寺・光輪寺・梅松院も焼け、翌々年の宝永5年に再建されたとあります。

当時の三宅村の庄屋は、歌人としても有名な妻屋秀員(「歴史ウォーク」73)でしたが、妻屋家も焼失したのでした。
三宅村では、この時の大火を「智光坊焼」と伝承しています。智光坊というお坊さんの失火から起こったと言われていますが、事実はよくわかりません。のち、宝暦13年(1763)の三宅村の家数は330軒ほどでしたので、およそ村の三分の二が焼けたと想像されます。

実は、先の宝永3年銘の地蔵は火災で亡くなった人々の霊を供養すると同時に、村中安全を念じて三宅村が建てたと言い伝えられています。しかし、出火は11月であるにもかかわらず、地蔵銘が卯月、つまり4月と記していますので、火事の前に石仏が造られたことになり、歴史的には矛盾します。どちらかの年月が誤記だと推測することも可能ですが、これ以上のことは詮索できません。

その後、三宅村では宝永3年の大火を教訓として、村中に「出火防手当用水溝」が造られました。
また、中高野街道が屯倉神社の前を南北に通っていますが、他村ではおよそ3メートル弱の道幅でしたが、三宅村では約3.6メートルに広がっていました。さらに、村の中央を東西に走る道も5メートル以上と広く、防火のために道路を拡張したと思われます。

そのうえ、人々は石造美術品としても水準の高い宝永3年銘地蔵を村中のシンボル的存在として信仰していったことでしょう。今も、中高野街道に面して立っている地蔵に手を合わせる人が少なくありません。

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