92 西方寺に移った平安期の仏

更新日:2018年12月13日
十一面観音像(右)と阿弥陀如来像(左)の画像

十一面観音像(右)と阿弥陀如来像(左)
 十一面観音像の頭上面・両腕・天衣は江戸時代後半の後補。
阿弥陀如来像は、与願・施無畏印を結ぶ。西方寺観音堂蔵。

梅松院の十一面観音像と豊興寺の阿弥陀如来像

 三宅中5丁目の古い町並みが残る一角に、融通念仏宗の安養山西方寺が建っています。同寺は、融通念仏宗大本山の大念仏寺(大阪市平野区)7代住職の法明が、鎌倉時代末期の元亨年間(1321~23)に創建したと伝えられています(「歴史ウォーク」34)。

この西方寺観音堂には、二体の古仏が並んで安置されていることで有名です。
一体は、近くの屯倉神社(「歴史ウォーク」31)の神宮寺であった梅松院の本尊・十一面観音像です。平安時代後半の作で、像高90センチメートル。桧材の一木造、漆箔に仕上げられています。ふっくらとした丸顔で、体部は肉取りが厚く、やや反り身です。

本像は三宅だけでなく、各地の人々に信仰されたことは、江戸時代後半(18世紀)につくられた木製刻画の版木が現存していることからもわかります。版木に紙を貼って墨を塗り、紙に刷られた観音さまが大量に生産されました。

版木は長谷寺式の十一面観音像を中央に配し、「天満宮本地十一面観世音聖徳太子御作」「河内国丹北郡三宅邑梅松院」と記しています。天満宮とは屯倉神社のことで、明治時代以前は神も仏も同じとする神仏習合が一般的でした。

享保11年(1726)に書かれた「三宅天満宮梅松院縁起」に史実はともかくとして、聖徳太子が仏敵退散の願いをこめて本像をつくり、蘇我馬子に賜わったとあります。やがて、7世紀の皇極天皇の時に三宅の豪族、土師敏傍がこれを譲り受けて屯倉の森に祀ったこと。また、平安前期には菅原道真が九州へ配流される途中、本像に御加護を祈ったとも伝承されています。

明治4年、梅松院は廃寺となったことから観音像は西方寺に移されました。本像は、方違や安産に霊験あらたかと信じられていましたので、昭和50年代まで西方寺は河内西国三番札所として賑わいました。「今世をばかけてぞたのむ三宅寺神も仏もへだてなければ」の御詠歌が境内に響きわたったものです。

もう一体は、やはり平安時代後半につくられた阿弥陀如来立像です。像高67センチメートル。桧の一木造です。肉身は金泥漆箔。撫で肩で肉づきが厚く、穏やかなお顔です。
本像は、融通念仏宗の仏法山豊興寺の本尊でした。豊興寺は、西方寺と同じく法明の念仏勧進道場としておこり、今の三宅中4丁目の東集会所あたりにありました。明治30年、豊興寺は廃寺となり、阿弥陀如来像が西方寺に移されたのです。旧地には、豊興寺地蔵が祀られています。

現在、観音堂の前には西国三十三カ所の各本尊を安置する御影堂もあり、西方寺は市域でも数少ない観音信仰の寺といえるでしょう。

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