99 市域最古の西川家住宅

更新日:2018年12月13日
西川家住宅の画像

西川家住宅(天美我堂7丁目)
西我堂村は江戸時代を通じて、家数はおよそ30~50軒、人口は190人から280人ほどを推移した。

17世紀中頃以前建築の大和棟の西我堂村庄屋宅

 江戸時代の天美我堂は、現在の天美我堂7丁目の善正寺(「歴史ウォーク」47)の東側を流れる水路(今は暗渠となり、道路が走る)によって、東側が東我堂村、西側が西我堂村に分かれていました。明治8年(1875)、両村は合併して我堂村となりましたが、西我堂村の庄屋をつとめていたのが西川家でした。
 江戸時代には、今の大字にあたる各村ごとに庄屋が任命されていて、お上の命令を伝えたり、下の願い事をとりついだり、年貢米の取り立てなどを行っていました。封建政治の下部機関として大切な役でしたので、家柄のよい富裕な家がその役を持たされました。
 善正寺の北側に、広大な屋敷地を構える西川宏さん宅は、市域で現存最古の民家として知られています。松原市史編さん室は、昭和52年と53年にわたって、市内で100年以上経ていると推定される約100棟の民家の悉皆調査を行いました。
 西川家は、過去に大阪府によって調査されていましたが、その主家は江戸時代初期の17世紀中頃以前という古い時期に建てられたことが、あらためて確認されました。
 大和や河内地方の富裕な農家では、大和棟といって主屋に茅葺の急勾配の大屋根をあげ、その両端に登り高塀をあげて、その上に瓦をのせたのですが、西川家もその好例です。
 もっとも、古い家ほど何度も改造されたり、改築されたりして、築造当初の原形がかなりくずされています。西川家でも、土間の下手は後補材です。しかし、居室部分は築造時の部材がよく残っており、仏間が独立した五間取り住宅として、非常に古い形式を示しています。
 特に、納戸(物置)の入口には、敷居を一段高くして、またいで入る「踏み込み」があったり、あるいは、居室の外側の柱が一間ごとに並んで、それぞれ両袖に片壁を持ち、その裏に板戸と明り障子を引き入れるという河内の民家でも最古の手法が用いられています。
 また、屋敷の裏(北側)には、橋が架けられた幅8メートルほどの周濠が見られますが、これは屋敷の南側にあった前ヶ池(埋め立てられ、松原第五中学校や天美我堂公民館となる)や東西の水路に囲まれた環濠集落のなごりでしょう。
 ところで、我堂にほど近い羽曳野市島泉には、吉村家住宅があります。同家は、元和元年(1615)の兵火後すぐの建築と考えられ、昭和12年、民家として国内で初めて国宝(現重要文化財)に指定されたことで有名です。
 西川家は、吉村家と時期的にも近く、そのうえ、間取りもきわめて類似した所が多くあります。むしろ、居室部分は吉村家よりもよく残っているとさえいわれています。今後、貴重な西川家住宅が守り伝えられることを願う次第です。

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