91 大塚山古墳の中の天満宮

更新日:2018年12月13日
『河内名所図会』に描かれた大塚山古墳と天満宮の画像
手洗鉢の画像

『河内名所図会』に描かれた大塚山古墳と天満宮
手前左側にある巨石の一部が手洗鉢に転用された。
右上は移築された手洗鉢(上田7丁目・柴籬神社)。黒雲母花崗岩。

陵墓参考地となって村を移された東大塚の人びと

 西大塚1丁目の河内大塚山古墳は、わが国で5番目に大きな前方後円墳です。濠をめぐらせ、墳丘全長335mを測ります。誰のお墓かわかりませんが、6世紀後半に築造されました(「歴史ウォーク」8)。

うっそうとした森に覆われた造山には、江戸時代初期までに集落が形成されるようになりました。丹北郡大塚村といい、のち墳丘の南北主軸を境に、西大塚村(松原市)と東大塚村(羽曳野市)に分かれました。

古墳の最高所(後円部)には、氏神として天満宮(大塚社)も祀られていました。享和元年(1801)発刊の『河内名所図会』は、「天満宮此塚の上にあり。実は王子の霊を祭るとぞ。大塚村等の生土神とす。祭りは六月廿五日」と紹介しています。大塚山も描かれ、北側から伸びる石段と天満宮境内の本殿・拝殿・石灯籠などが見られます。
また、古墳の前方部東側には融通念仏宗来迎寺末の西誉寺と浄土真宗本願寺派の正定寺も建っていました。

明治41年(1908)10月7日、天満宮は近くの柴籬神社(上田7丁目)に合祀されました。「合祀前後記載簿」(大阪府神社庁蔵)は、天満宮の氏子を28戸と記しています。西大塚の人は早くに古墳を出ましたが、明治末期の大塚山(東大塚)には30軒前後の家があったのでしょう。
このとき、天満宮のご神体とともに手洗鉢も柴籬神社に移されました。現在、同石は参集殿前に置かれています。表面には「天満宮享和元年九月東大塚村氏子」と刻まれています。もともとは、大塚山古墳に葬られた人の石室の一部を転用したものです。

大正14年(1925)9月21日、政府は大塚山古墳を皇室のお墓として陵墓参考地と決めました。このため、古墳内にあった東大塚村全戸の墳丘外への立ち退きが昭和3年までに完了するよう命じられたのです。
東大塚村の人々は、先祖から受けついだ墳丘内の土地を離れていきました。今、濠の東側に沿って南北に並んでいる南恵我之荘7~8丁目の集落が転居した新村です。

天満宮の氏子であった東大塚村の人々は、濠外に移された後も、昭和20年代まで柴籬神社にお詣りし、氏子総代を務めた人もいました。現在、天満宮は大津神社(羽曳野市高鷲)に合祀されていますが、柴籬神社には大正6年に奉納された東大塚村在住者の玉垣が残っています。

昭和初期まで自由に立ち入りできた大塚山古墳ですが、今では宮内庁の管理のもと何人も陵内に入ることができません。西大塚1丁目、濠外北西出入口側に「大塚陵墓参考地宮内省」「昭和七年十月」「猥ニ立チ入ルベカラズ」の石碑が今も建っています。

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