120 田井城に息づく平本氏

更新日:2018年12月13日
平本氏の墓石・題目石の写真
『河内鑑名所記』に名前が載る重成の書
 
 

江戸時代の平本氏の墓石・題目石(田井城6丁目・田井城墓地)と『河内鑑名所記』に名前が載る重成(柏原市三田昌孝氏蔵)
平本氏墓域は、墓地東南端にあり、福島家墓域に隣接する。
『名所記』には布忍の寺内氏・薮氏、小川の谷氏、三宅の一守などの名も見られる。

『河内鑑名所記』に載る平本重成とその子孫たち

 『河内鑑名所記』は、江戸時代前半の河内における名所や旧跡を紹介したガイドブックです。柏原の三田浄久が延宝7年(1679)に刊行しました。同書には、近畿在住者などの文人が今でいう観光地を題材にして狂歌や俳句を添えています。布忍・向井村(現北新町)の豪農らが多くの句を披露していますが、田井城村の平本重成も四句を載せています(「歴史ウォーク」72)。
 重成は、西浦村(羽曳野市)の釈迦堂十六羅漢で有名な宝浄寺を訪れて「西の浦ハ涼しくも有か夏座敷」と詠みました。地元では、阿保親王(平城天皇皇子、平安初期)の住居址と伝える阿保神社付近や親王の子孫という幸松麿が眼病の母の身替りとなって投身した稚児ヶ池(現松ヶ丘)をテーマに「春の色は東阿保の景気哉」と「そとは見てなミたの露や児か池」の句が見られます。また、「布瀬川鮎のさしみや糸造」と詠って、布忍神社あたりを流れる西除川を愛でました。
 平本氏は田井城村の豪農で、代々、当主の多くは浅右衛門を名のっていました。重成は村政に関わりながら、『河内鑑名所記』に作品が載る向井村の庄屋・寺内栄貞や寺内安求などと文人としても交遊をもったでしょう。
 同書発刊後、50年ほど経た享保12年(1727)、各村の庄屋らが幕府役人に差し出した「御用金掛リ役人召抱につき願書」という史料(天美我堂・西川宏氏蔵)に、田井城村の浅右衛門の名が見られます。重成その人か、彼の子孫と考えられます。
 現在、田井城墓地には平本氏が建てた江戸時代中葉ごろの「南無妙法蓮華経」の題目石と江戸後期~幕末にかけて亡くなった平本氏の墓が残っています。題目石は磨滅が激しく、文字がよく読みとれませんが、時期的には重成に関わる可能性もあります。墓石は、西面に「妙法」と大書きされた下に三人の法名が記され、南面に「文政四年」(1821)、「天保五年」(1834)、「嘉永七年」(1854)の年号が見られます。北面には「平本氏」と刻しています。
 「南無妙法蓮華経」や「妙法」からもわかるように、平本氏は日蓮宗の信徒でした。同家は田井城5丁目の西ヶ池の東側に住居を構えていましたが、今では田井城を出て、その遺構は残っていません。
 同じ日蓮宗信徒である隣接する福島家との縁組みも持ち、明治3年、平本浅右衛門の次女スへ(天保11年生まれ)は、福島平十郎(文政5年生まれ)に嫁いでいます。平十郎は明治29年、田井城に日蓮宗善宗寺を大阪から移した発起本願人の一人でもありました(「歴史ウォーク」118)。なお、スヘの弟である平本彦三郎は、この福島家の養子となり、明治9年、狭山池の番水監視で用水を守ろうとして犠牲となった福島彦三郎、その人だったことも付け加えておきます(「歴史ウォーク」119)。

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