96 農村文学を担った自休軒安林

更新日:2018年12月13日
「淡交」の扁額の画像

「淡交」の扁額(北新町1丁目、寺田修二氏蔵)
縦35センチメートル、横195センチメートル。
末尾に「自休軒安林 七八之秋」と記す。
七八とは安林56歳の時であろう(宝永元年)。
一方、布忍神社に奉納された「布忍八景」絵馬は寺田文男氏の土蔵に保管されていた。

『熊野案内記』を著し、布忍俳諧サークルを指導

 江戸時代の前半、市域には多くの俳人たちが活躍していました。大阪府立大学教授の山中浩之さんは、当時、大坂で盛んだった松永貞徳の貞門派や西山宗因の談林派の俳人のなかから、河内地方の出身者を紹介しています。
 それによると、寛永から天和年間(1642~83)ごろ、本市では上田・新堂・岡の松原村に24人、向井・高木・清水の布忍村に17人、三宅村に10人、池内村に4人、田井城村・小川村に各1人がみられます。40年間にわたりますが、62人の俳人がいたことになります。この数は、松原の村々が含まれる丹北郡の78%、河内国の17%を占めます。
 なかでも、向井村の庄屋であった寺内(のち寺田)好右衛門は自休軒安林と号して、天和から宝永年間(1681~1710)、布忍俳諧サークルの指導的存在でした。安林は天和2年(1682)7月末から、仲間3~4人と、平安時代以降、「蟻の熊野詣」といわれるほど信仰の厚かった紀州(和歌山県)の熊野三社(本宮・速玉・那智)にお詣りしました。32歳ごろのことです。高野山を越えて、熊野街道沿いの史跡や風物を楽しみながら、句を詠み、8月上旬に布忍に帰りました。
 翌天和3年の春、安林はその時の体験を『熊野案内記』(東京・三井文庫蔵)として書き残しました。江戸時代の庄屋の紀行文として貴重なものであり、『松原市史研究紀要・第六号』(平成8年)に翻刻されています。
 宝永元年(1704)、安林56歳の時、庄屋職を辞して自宅の裏に「淡交」とよぶ隠居所を建てました。北新町1丁目の向井公民館東南側、下高野街道沿いに建つ重厚な長屋門を構える寺田文男さん宅や、その北側の江戸時代後半の住宅遺構を残す寺田修二さん宅が安林の旧地を引き継いでいます。
 その寺田(修)さん宅に欅の厚い一枚板に「淡交」と冒頭に大書きした扁額が掛けられています。額は、宝永元年秋ごろ、安林が隠居所に掲げたものです。安林は、向井村の古刹である布忍山永興寺(「歴史ウォーク」26・「歴史ウォーク」27)の象外和尚より讃文をもらい(宝永元年7月)、安林自ら鎌倉時代の歌人である鴨長明の隠棲にならって、隠居すると述べています。翌宝永2年、安林は氏神の布忍神社に奉納した「布忍八景」絵馬(「歴史ウォーク」71)に俳諧一句の他、技能に長けた人でないと作れない廻文(上から読んでも下から読んでも同音の俳諧)も8句書いています。
 安林は松原だけでなく、柏原・藤井寺・羽曳野・堺などの村々の俳人とも交流し、近世農村文学の興隆の一翼を担ったのでした。
 享保4年(1719)正月8日、安林は70歳で亡くなり、「淡交自休大徳」の戒名がつけられました。

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